2022年 11月 21日
《 詩人の肖像 「 斎藤茂吉」 》
山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村(現在の上山市金瓶)に生まれた。
守谷家には、茂吉が小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無く、
茂吉は、画家になるか寺に弟子入りしようかと考えたが、
東京・浅草で医院を開業するも跡継ぎのなかった同郷の精神科医、
斎藤紀一の家に養子候補として厄介になることとなった。
上京したのは15歳のときで、
「こんなうまいものがあるのか」と思い、
夜に到着した東京・上野駅では、
「こんなに明るい夜があるものだろうか」と驚いたという。
1905年斎藤家に婿養子として入籍。
当時、後に妻となる輝子は9歳であった。
医師となった後、31歳のときに紀一の次女・輝子
と結婚して斎藤家の婿養子となった。
しかしながら東京のお嬢さん育ちであった輝子は派手好きで活発な女性で、
律儀な茂吉とは価値観や性格があわず、
輝子の男性問題もあって、別居していたこともある。
茂吉も40世住職・佐原窿応の薫陶を受けた。
第一歌集『赤光』の題名は「阿弥陀経」に因んでいる。
また時宗大本山(のち浄土宗本山)蓮華寺49世貫主となった晩年の窿応を訪ねている。
養子に入った斎藤家は、皮肉にも
蓮華寺の一向派を抑圧する側であった遊行派の檀林日輪寺の檀家であった。
茂吉の分骨墓が宝泉寺境内に遺されている。
生前自ら作っていた戒名は、一向派の法式になっている。
****************************************
「みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる」
「吾妻やまに雪かがやけばみちのくの我が母の國に汽車入りにけり」
「はるばると藥をもちて來しわれを目守りたまへりわれは子なれば」
「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」
「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」
「ひとり來て蠺のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり」
「楢若葉てりひるがへるうつつなに山蠺は靑く生れぬ山蠺は」
「葬り道すかんぼの華ほほけつつ葬り道べに散りにけらずや」
「おきな草口あかく咲く野の道に光ながれて我ら行きつも」
「わが母を燒かねばならぬ火を持てり天つ空には見るものもなし」
「星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり」
「蕗の葉に丁寧にあつめし骨くづもみな骨瓶に入れしまひけり」
「どくだみも薊の花も燒けゐたり人葬所の天明けぬれば」
「火のやまの麓にいづる酸の湯に一夜ひたりてかなしみにけり」
「湯どころに二夜ねむりて蓴菜を食へばさらさらに悲しみにけり」
「山ゆゑに笹竹の子を食ひにけりははそはの母よははそはの母よ」
《ヤマセミの谿から・・・ある谷の記憶と追想》